秀吉と温泉 その1
有馬温泉 太閤橋(兵庫県神戸市)
先日、フジテレビ系列の番組「千鳥のクセがスゴいネタGP」を見ていると、本能寺の変のギャグで一世を風靡したエグスプロージョンが出演していた。懐かしい、あのネタで本能寺の変の年を一発で覚えたなと懐かしに浸る中、ふと疑問が。
「織田信長を自害に追い込み天下を統一した明智光秀。では三日天下の由来となった明智光秀はどういった終焉を迎えたのだろうか」
答えから述べると1582年、現在のちょうど東海道新幹線の京都府と大阪府の県境付近で起こった「山崎の戦い」で明智光秀軍は羽柴(豊臣)秀吉軍に敗北。この勝利によって秀吉はのちの清洲会議で信長の後継者としての地位を固めることになる。
山崎の戦いから遡ること1577年。⽑利両川(⽑利・吉川・⼩早川)体制」を構築し中国地⽅制覇に向け勢⼒を拡⼤した⽑利⽒と、「天下布武」に邁進する織⽥信⻑との全⾯衝突は避けられない情勢となっていた。信長から毛利輝元の勢力圏であった中国地方を攻めることを命じられた秀吉は、毛利軍の援軍に対抗すべく信長に援軍を要請。この援軍に送られる予定だったのが明智光秀であった。しかし、早急に備中高松城(現在の岡山県)の落城を命じられた秀吉は、高松城が低湿地帯にある立地を活かし黒⽥官兵衛の献策をいれて秘策の「⽔攻め」に取りかかる。城の近くを流れる⾜守川の東・蛙ヶ⿐から全⻑約3km、⾼さ約7mの堤防を築いて、⽔を引き込んだのである。時期は5月の梅雨時、城は浮島になり高松城は孤城となる。
一方輝元は救援を向かわせたがなす術なく、秀吉に講和を申し入れることとなる。しかし、「中国地方5ヵ国の譲渡と城兵の生命安全」を提示した毛利氏に対し、秀吉は「中国5ヵ国の譲渡と高松城主、清水宗治の切腹」にこだわったため、なかなかまとまらなかった。
次回、山崎の戦い
<参考文献>
https://www.touken-world.jp/tips/10365/
https://kojodan.jp/castle/252/memo/974.html
https://myougenji.or.jp/about/mizuzeme/